1945年8月7日の豊川大空襲
今日は1945年8月7日の豊川大空襲について書いてみたいと思います。
太平洋戦争終結間近の1945年8月7日に、愛知県豊川市は米軍機による大規模な空襲を受けました。空襲された場所は、当時、東洋一の規模を誇っていた豊川海軍工廠という軍需工場でした。
工廠に対する攻撃は、テニアン島方面から来襲したB29爆撃機124機と、硫黄島から来襲したP51戦闘機45機によって、午前10時すぎから約30分間にわたって行われました。
3000発以上の爆弾投下と機銃掃射が行われ、これにより豊川海軍工廠は甚大な被害をこうむりました。
そして、2500名以上の死者と1万人以上の負傷者を出すという大惨事になりました。
犠牲者の中には、各地から働きに来ていた国民学校の生徒や女子挺身隊など10代の人も多数含まれていました。
現在の豊川海軍工廠跡は工業団地と陸上自衛隊の駐屯地になっていますが、北西部にある弾薬庫跡は今でもその形を留めています。
現在の日本は平和の中にありますが、安保法案の問題により、日本の防衛の方向性は変わるかもしれないところに来ています。
しかし、太平洋戦争による悲劇は2度と繰り返してはならないはずです。
近年、他国による軍事的脅威は大きくなってきていますが、日本が自国の領海を越えて武力行使を行うということはあってはならないはずです。
安保法案は国民が納得できるものであることが大前提だと思います。
豊川海軍工廠の場所は、以下の地図に示す箇所(青い枠の中)です。
爆撃は、主にこのエリアの中心部から西側にかけて集中しました。
以上、1945年8月7日の豊川大空襲についての記事でした。
2015年8月7日