西郷隆盛と東三河の西郷氏は同族なのか
来年のNHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」は西郷隆盛の生き様を描いたドラマで、 久しぶりの幕末ものになります。
再来年はオリンピックものの近代のドラマになるようで、戦国時代ものの放映はしばらく先になりそうです。
ところで、戦国時代、東三河の一部(豊橋市北東部)を治めていた国人に西郷氏(三河西郷氏)という一族がいましたが、
この三河西郷氏と薩摩の西郷隆盛は共に、平安時代に九州肥後を領していた菊池一族の末裔であることが通説となっています。
通説どおりであれば、三河西郷氏と西郷隆盛は同族ということになります。
(他の説として、三河西郷氏は美濃の土岐氏から派生したとする説があります。)
通説にしたがったいきさつは以下のとおりです。
南北朝時代、菊池氏を祖とする九州肥前の西郷氏の一派は、三河国守護の仁木氏に誘われて三河の岡崎に移り住み、その当主が三河の守護代に任じられました。
この一派は三河西郷氏といわれました。
一方、三河に移らず九州に残った西郷氏の一派は、江戸時代には薩摩藩主である島津家の配下となりました。
そして、そこから西郷隆盛が輩出されました。
室町時代になると、三河西郷氏は岡崎の一帯を治める国人になりましたが、そのときの当主が岡崎城を築城して初代の岡崎城主になり、岡崎の地固めを行いました。
しかし戦国時代に入ると、松平氏が岡崎に勢力を広げてきたため、三河西郷氏は東三河の旧八名郡(豊橋市北東部)に移り住み、現在の豊橋市の嵩山(すせ)町や石巻のあたりに数ヶ所、居城を構えました。
その後、駿河の今川家が東三河に勢力をのばしてくると、三河西郷氏は今川家の配下になりましたが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、今川家と絶縁して松平元康と組みました。
これにより三河西郷氏は今川家から攻められる立場に変わりましたが、
今川家が滅んで東三河が徳川家康によって安泰化すると、三河西郷氏は徳川家との絆を深めるため、姫を家康に嫁がせました。
その姫は西郷局(さいごうのつぼね)と呼ばれ、浜松城にて後の徳川2代将軍秀忠を産み、三河西郷氏の血は徳川7代将軍まで引き継がれていきました。
江戸時代になると、三河西郷氏は関東に移って大名になりました。
幕末の会津藩家老、西郷頼母(さいごうたのも)は三河西郷氏の子孫にあたります。
徳川家と西郷一族になにか因縁めいたものを感じます。
以上、西郷隆盛と東三河の西郷氏は同族なのかの記事でした。
2017年12月12日

